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愼英弘の部屋VOL.11「視覚障害者に対する社会の人々の理解と認識のずれ」

障害者に対する理解を促進するために、学校での教育や社会におけるさまざまな啓発がなされている。その結果、社会の人々の障害者に対する理解は格段に進んできたといえる。しかし、障害者に対する理解は進んでいるとはいえ、障害に対する認識は進んでいるとはいい難い状況がある。
すなわち、障害者に対する理解と障害に対する認識がずれていることがあまりにも目立つのである。
 ここでいう障害者に対する「理解」とは、障害者の特性を知ることであり、かつ、その特性ゆえにどのような困難があるかを把握することである。ここでいう障害に対する「認識」とは、障害者の抱えている困難を減らす(あるいは解消する)ために、社会の人々がどのように障害者に接するか(あるいは声かけするか)である。
 今回は、視覚障害者に対する社会の人々の「理解」と「認識」の「ずれ」について、私の経験をも踏まえて述べることにする。この「ずれ」をいかにして正すかは大きな課題である。

  「視覚障害者に対する社会の人々の理解と認識のずれ」 

はじめに

 本題に入る前に、「視覚障害者」とはどのような障害のある人を指すのかについて述べておく。
 「視覚障害者」とは、文字通り視覚に障害がある人のことである。しかし、それはどのような障害であり、どのような困難があるかについてはまったく具体的には示していない曖昧なよび方である。
 かつては、視覚障害者は「盲」と「弱視」に分類されていた(現在もこの分類がなされることはある)。つまり、ある程度文字は見えるが晴眼者(目の見える人のこと)に比べて視力が弱い者を「弱視」とよび、文字が見えない者を「盲」とよんでいる。この両者を併せてかつては「視力障害者」とよんでいた(現在もこのよび方をすることはある)。
 「視力障害者」とは、文字通り視力に障害がある者を指している。目に障害があるのは視力障害者だけではない。
 視力には障害がないが、つまり視力は1.5や2.0あるが、視野がかけている者もいる。視野狭窄のために日常生活や社会生活に困難がある者も含めると、「視力障害者」というよび方では網羅できない。そこで、視野狭窄の者も含めた名称として「視覚障害者」というよび方が登場した。
 現在では「視覚障害者」という名称は一般的に広く使われている。一般的に使われているだけではなく、それは“身体障害者福祉法”等の法律においても用いられている。
 目に障害がある者は、盲や弱視や視野狭窄の者だけではない。色の識別が困難な者や、物を見るときに眼球を「静止」させることができず、物を「じっと見ること」が困難な者もいる。これらのほかにも、目のさまざまな病気等によって、物を見ることが困難な者もいる。
 このように、「視覚障害者」とは目にさまざまな困難を抱えている人を含んでいるが、“身体障害者福祉法”に規定されている“身体障害者手帳”の交付を受けることができるのは、盲や弱視の視力障害者と視野狭窄の者だけである。
 「弱視」といってもその範囲は広い。文字がやっと見える程度の視力の者から、比較的小さな文字でも見える0.3程度の視力のある者まで、その幅は広い。いずれにせよ、文字が見える程度の視力があるので、「盲」に比べると日常生活上の困難は少ないといえる。
 「盲」といってもその幅は広い。明暗すら判らない「全盲」、明暗が判る「光覚弁」、目の前で手を動かすのが見える「眼前手動弁」、目の前で手の指をかざしたときにその数が判る「指数弁」等々とその幅は広い。また、文字は見えないが人の姿は見える程度の者をも含むと、さらにその幅は広くなる。
 以上述べてきたように、「視覚障害者」という名称は単に目に障害がある者を指している曖昧なよび方である。したがって、視覚障害者に関わる問題を取り上げるときには、単に「視覚障害者」というのではなく、視覚障害のうちのどの部分を指すのかを明確にする必要がある。なぜなら、そうしなければ、問題の所在を曖昧にしかねないからである。
 本稿で取り上げる視覚障害者の理解と認識のずれの対象になる「視覚障害者」は、以上述べてきた「盲」のうちの「全盲」およびそれに近い状態の者である。すなわち、いわゆる「盲人」である。

 

1.視覚障害者の理解に向けて

 本題に入る前に、視覚障害者を理解するために、視覚障害者に関するいくつかの問題について述べることにする。すなわち、視覚障害者について「まず知ること」が大切であるからである。

(1)視覚障害者やその心理に対するさまざまな誤解は、偏見や差別に結びつくことがあるので、誤った認識は是正しなければならない。

ア.「目が見えない状況は、目の前が真っ暗なんだろうな」という誤解がある。

 多くの晴眼者は、全盲の者は目の前が真っ暗だと思っているだろう。なぜなら、目隠しをしたり、頭から布団をかぶったりすると、目の前が暗くなるからである。したがって、このような誤解を生ぜしめることになる。
 生まれつきの全盲の者に「目の前は真っ暗ですか?」と質問しても、おそらく「判らない」と答えるであろう。なぜなら、物を見たという経験がない生まれつきの全盲の者にとっては、黒や白などの判別ができないからである。私のように小学3年生のときに失明したいわゆる後天性の視覚障害者(中途視覚障害者、中途失明者)にとっては、色の記憶があるので、目の前が暗いかどうかは判る。
 一般的にいって、後天性の視覚障害者は目の前が暗いとは限らない。理由は判らないが、おそらくは障害を受けた部位からかもしれないが、全盲であっても目の前は暗いものばかりではない。白く光って見える者や、さまざまな色がちらついている者など多様な状況である。
 したがって、目の見えない者は目の前が真っ暗などという固定観念はもつべきではない。

 イ.「目が見えない人は耳がいいんだろうな。遠くの音もよく聞こえるんだろうな」という誤解がある。

 このような考えはまったくの誤りである。歳をとるに従って誰でも聴力は衰えてくる。それは視覚障害者も例外ではない。そして、遠くの音も聞こえにくくなる。
 とはいえ、確かに視覚障害者は「耳がいい」。それは、小さな音が聞こえるとか、遠くの音が聞こえるとかということではない。瞬時に音を聞き分けることができるという意味での「耳がいい」ということである。
 晴眼者は視覚を通しての情報に頼ることが一般的である。それに対して、視覚障害者は耳からの情報に頼ることが一般的である。すなわち、家にいるときも、外出時に道を歩くときも、電車やバスに乗っているときも、視覚障害者は常に耳に神経を集中させて耳から入る情報を逃さないような生活をしている。それゆえに、雑踏の中にいても、さまざまな音を瞬時に聞き分けることができるのである。ガイドヘルパーと一緒に歩いているときに、ガイドヘルパーが気づかない音を、私は聞き逃すことはない。そのようなことで、視覚障害者は「耳がいい」といわれるのである。 

 ウ.「目が見えない人は音楽の才能があるんだろうな。音感も優れているんだろうな」という誤解がある。

 視覚障害者であることと、音楽の才能があることとは科学的根拠はないはずである。単に誤った認識がもたれているだけにすぎない。しかし、確かに視覚障害者の中には音楽の才能に優れている者が、晴眼者に比べるとその比率が高いかも知れない。とはいえ、視覚障害者だから音楽の才能があるわけではない。
 目の見えない子どもが生まれると、その両親は遊び相手として楽器を与えることが多い。家の外に出して「いじめられること」を心配するあまりに、家の中で楽器を遊び相手にさせるのである。最初はおもちゃのピアノであったり、木琴であったり、笛であったり、手ごろな楽器を与える。一日中楽器を鳴らして遊んでいるうちに、音楽に関する潜在的能力が引き出されるようになることがある。それは、晴眼者の場合も同様である。幼い頃から楽器に触れている晴眼児の中には、音楽の潜在的能力が引き出されることがある。
 幼い頃から楽器に触れているすべての者が音楽の潜在的能力を引き出されるわけではないが、視覚障害児の場合は楽器に触れる時間が晴眼児よりもおそらく圧倒的に長いので、したがって、視覚障害者で音楽の才能のある人が多いように思われるにすぎないのである。私の幼い頃の家庭のように、甚だしく貧乏だった者は楽器を買ってもらえるような状況ではなかったので、音楽の才能が引き出されるような家庭環境ではない者にとっては、音楽の潜在的能力があったとしてもそれが引き出されることはないのである。 

 エ.「目が見えなくなると『すぐに』ほかの感覚が鋭くなるんだろうな」という誤解がある。

 目が見えない者は、耳や指先の感覚が鋭い。瞬時に音を聞き分けたり、指で物を触って文様などを認識したり、晴眼者よりも耳や指先の感覚が鋭いのはまちがいない。しかし、それは目が見えなくなったとたんに身につくわけではない。目が見えなくなると「すぐにほかの感覚が鋭くなる」というのは誤りである。
 中途失明したときの年齢や状況によって、耳や指先の感覚が鋭くなるかどうかが決まるといっても過言ではない。若くして失明したり、失明のショックから早く立ち直ったりするかどうかである。換言すれば、前向きに生きようとする姿勢があるかどうかである。失明のショックから早く立ち直って、前向きに生きようとするならば、視覚以外の感覚が鋭くなっていく。つまり、「すぐに」鋭くなるのではなく、本人の努力の積み重ねによって、感覚が鋭くなるのである。
 私の知り合いで、20歳の頃に突然失明した人がいる。その人は極めて前向きであり、1カ月もすれば、白杖1本を頼りに1人で外出できるようになっている。まさに本人の努力次第の良き実例である。

 オ.「視覚障害者は実際の物は見えないが、『心の目』で社会や人を見ることができるんだろうな」という誤解がある。

 このようなことをいう人に、「心の目」とは何ですかと聞いてみたい。視覚障害者には「心の目」などというものはない。それは誤った認識である。
 視覚障害者の中には、物事を分析したり本質を捉えたりすることを簡単にできる者がいる。その洞察力のすばらしさを「心の目」などといっているのかも知れない。洞察力の優れている人は、視覚障害者以外にもたくさんいるはずである。その人たちについては「心の目」といわないのはなぜなのだろうか。それは、晴眼者はできて当たり前、視覚障害者はできるのが驚異的などとする偏見が背景にあるのではないか、とするのは「私の偏見」だろうか。
 

 カ.「目が見えない人は真っ暗闇の中での生活に恐怖をもっているんだろうな」という誤解がある。

 視覚障害者は目の前が真っ暗だとは限らないことについては、すでに「ア.」で述べた。
 目が見えない視覚障害者は恐怖を抱きながらの生活をしているかどうかである。晴眼者の場合、アイマスクをつけたり、目隠しをしたりして道を歩くと筆舌に尽くしがたい恐怖を感じるだろう、そのような恐怖心が視覚障害者にもあるのではないかと考えるからこのような誤った認識をもつのである。
 ある日突然目が見えなくなると、家の中でも1人で歩くことに恐怖を感じるだろう。それはまちがいない。しかし、人はどんな状況にも慣れてしまうし、努力によって困難な状況を克服することができるようになる。つまり、初めて目隠しをして1人で歩くのは恐怖との戦いであるが、視覚障害者になって長い時日が経過している者にとっては、目が見えないことで恐怖を感じることはないといえる。なぜなら、目が見えない状況に慣れてしまっているからである。
 私はほとんど毎日のように1人で外出している。雨が降ろうが風が吹こうが特別の場合を除いては1人で外出している。外出の際に恐怖心をもったことは一度もない。しかし、外出する際に、「今日はけがをしないだろうか」「事故に遭わないだろうか」などといつも考えているが、それは恐怖心ではない。もしも恐怖心があれば1人での外出は困難になってしまう。
 「特別の場合を除いては」と記したが、その「特別の場合」とは、京都や東京のような遠くに行く場合である。10年ほど前までは東京にも私は1人で行ったが、最近では聴力が落ちたうえに勘も鈍ってきたので、遠出をするときにはガイドヘルパーを頼むことにしている。ガイドヘルパーを頼むのは、決して1人での外出に恐怖があるからではない。単に安全な外出をしたいからである。
 

 キ.「目が見えない人は寝ているときに夢を見ないんだろうな」という誤解がある。

 「夢を見る」という表現のためなのか、夢は晴眼者が見るものと誤った認識をもっている人がいる。夢は目で見るのではない。夢を見るのは脳の作用なので、目が見えない人も「夢は見る」のである。
 晴眼者と全盲の者とでは、夢の状況に決定的な違いがある。全盲になるまでの私は、「ふつうに」夢を見ていた。全盲の状態が数年続いた頃からの夢には映像がなくなった。つまり、現在では、私の見る夢は音だけである。日常生活において映像を見ることがないので、夢においても映像がないのである。
 私が中学生のとき、英語の担任の教師が興味深い話をしてくれた。留学のために長くアメリカに住んでいたとき、夢の中での会話は、日本語ではなく英語だったとのことである。すなわち、夢の状況はその人の生活の環境に沿った形で現れるということである。
 

 ク.「目が見えない人は酒を飲んでも酔っぱらわないんだろうな」という誤解がある。

 あるとき一緒に酒を飲んでいる人からこのように言われた。私はびっくり仰天してその理由を聞いた。「目が見えないんだから酔っぱらっても天井がぐるぐる回るのは見えないだろう」と言われた。説明するのに難儀な思いをした経験があった。
 その人は酔っぱらうという状況について、目が回るような状況と結び付けているのである。酔っぱらうという状況は、目が見えるとか見えないとかと関係しない。とはいえ、説明したものの、その人は納得したかどうかは判らない。
 

 ケ.「『声』や『音』ですべてが判断できるんだろうな」という誤解がある。

 視覚障害者のうち全盲の者は、耳からの情報が最も多いので、声や音で判断する。しかし、すべてを判断できるわけではない。「すべてを判断できる」というのは誤った認識である。
 音を手がかりにして道をほぼまっすぐに歩いたり、目的の所に行ったりするのはまちがいない。しかし、建設工事場のような大きな音がする場所では、音環境が破壊されるために音は安全に歩くための手がかりにはならない。逆に、小さすぎる音も危険回避を困難にする。新しい自転車はまったくといっていいほど音がしないし、ハイブリッドカーは低速の場合にはエンジンの音がしないので、視覚障害者自らが危険を回避することは困難である。音は大きすぎても小さすぎても視覚障害者にとっては安全確保のための手がかりにはならないのである。
 声によって相手が誰であるかを判断するのはまちがいない。しかし、必ずすべて判断できるわけではない。「おはよう」や「こんにちは」などの挨拶の声だけでは、それが誰であるかを判断することは極めて困難である。挨拶の言葉はわずか1秒程度である。そのわずかな時間の声で瞬時に相手を特定することなどはほとんど不可能に近い。よほど特徴的な声であれば別だが、声だけで相手が誰であるかを判断するには1分とはいわないが、やや長い秒数が必要である。したがって、どんなに親しい間柄であっても、どんなに長い期間付き合っていても、視覚障害者に出会ったときには必ず自分の名前をまず伝えることが肝要である。

 

(2)視覚障害者の趣味やスポーツ、日常生活。

 ア.まったく目が見えなくても晴眼者と同じような趣味をもっている者もいる。

 幼い頃であっても、大人になっても、高齢者になっても、人はさまざまな趣味をもっている。「私には趣味などない」という人がいるかも知れないが、本人が気づいていないだけであって何かしらの趣味をもっているはずである。映画を見たり、ゴルフに行ったり、記念切手を収集したりするだけが趣味ではない。鳥や虫の声を聞いて楽しむのも趣味の一つである。また、毎日のように近所を散歩するのも趣味だといえる。ただ、本人がそれを趣味と思っていないだけのことである。
 まったく目が見えない視覚障害者もさまざまな趣味を楽しんでいる。全盲の者は自動車の運転を趣味にすることはないと私は思っていた。しかし、全盲で自動車の運転を趣味にしている者もいる。もちろんのこと公道を走ることはできない。運転免許証がないからである。栃木県にあるサーキットを借りて、インストラクターが横に座って、運転席に視覚障害者が座り、自動車を走らせるのである。このことはときどき新聞で報道されている。
 ゴルフ場に通っている視覚障害者もいる。ボランティアさんにボールを打つ方向を教えてもらって、クラブを振るのである。ゴルフを楽しみたい視覚障害者が集まって、ゴルフの協会を組織している。
 以上はごく一例であって、晴眼者が行っている趣味のうちで、視覚障害者がしていないものを探すことはおそらくできないだろう。それほどに視覚障害者はさまざまな趣味を楽しんでいるのである。

 イ.目が見えなくても視覚障害者はたいていのスポーツを実際にやったりして楽しんでいる者もいる。

 スキー、アイススケート、水泳、マラソン、トライアスロン等々、視覚障害者もさまざまなスポーツをしている。空中を飛んでいるボールを打つのは困難であるので、野球やバレーボール、卓球などはボールやピン球を地面や台の上を転がす方法でなされている。ボールの中に鈴等を入れて、音が出るように工夫されている。テレビでもときどき取り上げられるブラインドサッカーを見たことがあるだろう。ブラインドサッカーの世界選手権大会も行われている。
 晴眼者がしているスポーツとまったく同じルールでなされているものもあるが、少しルールを変えたり、伴走者(手引き者)と一緒に走ったりして、視覚障害者はスポーツを楽しんでいるのである。

 ウ.目が見えなくても映画を楽しんでいる視覚障害者もいる。

 映像を見ながら楽しむ映画は、映像の見えない視覚障害者にとっては充分に楽しむことができない。そこで、映画に音声解説を付けたり、映画館がスタッフによる音声解説をしたりして、視覚障害者が映画を楽しめるようにしている。
 音声解説の中身は主として二つである。一つは、画面の人の動きや景色等の映像を説明するものであり、他の一つは、外国映画の場合には字幕を音声で読み上げるものである。
 “視聴覚障害者情報提供施設”すなわちかつての名称でいうと“点字図書館”では、DVDに音声解説をつけて“シネマデイジー”として視覚障害者に貸し出している。
 映画館の中には、音声解説をするサービスをしているところもある。また、ITを使って映画の場面等を解説するサービスがなされているところもある。 このようにして、全盲の者でも映画を楽しむ状況が広がっているのである。

 エ.まったく目が見えなくても炊事や洗濯、育児を自分自身でしている者もいる。

 私は学生時代と大学院生時代の9年間、自炊生活をしていた。その頃はIHのような便利なものがなかったので、焼き物や炒めものはすべてガスレンジを使っていた。ガスレンジだとフライパンや鍋の中のものがどの程度の状況か把握するのが困難である。したがって、適当にやっていた。全盲の私には絶対にできないものがあった。それは天ぷらを揚げることと、魚を焼くことである。天ぷらの場合は油に火が入る可能性があるからであり、魚は全体が焼けたかどうか確認できないからである。したがって、魚は焼かずに、フライパンで炒めて蒸す方法にしていた。今でも包丁の使い方は上手だと自画自賛している。
 全盲で炊事を自分1人でしている者は、私の周りにもたくさんいる。少し練習すればできるようになる。
 洗濯は洗濯機がしてくれるので簡単にできる。しかし、汚れがきれいに取れているか、白いものに色移りはしていないかなどは視力を必要とするので、全盲の者にとってはその確認が困難であることはことさらにいうまでもない。したがって、全盲の者が1人暮らしをしている場合には、どんな色のものを着ているかを知っておく必要がある。
 全盲で子育てをしている人はたくさんいる。授乳もおむつ替えも不自由なくできるが、赤ちゃんの顔色の確認や異物を飲み込んだのではないかなどの確認が困難なことは多々あるが、周辺の人の協力を得ながら、子どもを育てている実例は枚挙に暇がない。視覚障害者による子育ての奮闘を記録した出版物もいくつかある。

 以上述べてきたように、全盲の視覚障害者も趣味やスポーツや映画等を楽しんだり、育児をしたり、いわゆる「ふつうの生活」を送っている。しかし、視覚障害者の全員が自分1人で何もかもできるとは限らないので、近所の人をはじめ社会の人々の手助けが必要であることは多言を要しない。

 

2.理解と認識のずれ

(1)私の経験からすると、多くの人は、視覚障害者についての理解と認識がずれているといえる。ここでは、私の経験を踏まえて、具体的な事例を取り上げて述べることにする。

 ア.タクシーの運転手の例。

 私はほぼ毎日のように白杖をついて1人で外出をしている。行き先は専ら図書館であり、時々はカラオケボックスである。移動手段はたいてい地下鉄やJRや私鉄等の鉄道である。しかし、鉄道の駅舎が近くにないときや、夜遅いときなどはタクシーを利用する。1カ月に少なくとも3回はタクシーに乗っている。
 タクシーに乗車するとほとんどの運転手は「目が見えないんですか?」と聞いてくる。「はい。明かりも見えません」と答えた後、しばらく雑談をする。
 乗車したときに行き先を具体的に告げる。たとえば、交差点の名前をいい、信号の手前にある歯医者さんのところで止めてくださいという。目的のところにタクシーが到着すると、どのタクシーの運転手も例外なく「ここでいいですか?」と言うのである。
 私がタクシーに乗ったときに運転手は、私が明かりも見えない視覚障害者であることを知った。それにもかかわらず「ここでいいですか?」と言う。その「ここ」が歯医者の前であるかどうかは私は確認できない。本来ならば、「歯医者さんのところです」と言うべきである。しかし、そのような伝え方をしてくれるタクシーの運転手にはいまだにお目にかかったことがない。おそらく運転手はマニュアル通りに「ここでいいですか?」と聞くのだろう。
 運転手は私が視覚障害者であることを理解しているにもかかわらず、タクシーが目的のところにきちんと停車していても、目が見えない私にとってはそれを確認できないということを運転手は認識できないのである。まさに理解と認識がずれているのである。

 

 イ.道を歩いているときに声をかけてくれる人の例。

 拙宅から最寄りの鉄道駅舎までは徒歩で約28分かかる。ほぼ毎日歩いているので、いろいろな人から声をかけてもらえる。通勤途中の人、散歩をしている人、食堂への呼び込みをしている人など何人もの人から声をかけてもらえる。
 商店街の狭い通路を歩いているときにも声をかけてもらえる。後ろから「自転車が置いてあるからもう5センチ右」「右に寄り過ぎなので少し左に」「そのまま曲がらずにまっすぐ」などと。私が全盲であることを知っているので、いつも親切に声をかけてくれるのである。
 しかし、「5センチ右」とか「少し左」とか言うが、全盲の視覚障害者はまっすぐに歩く努力はしていても、音の反射や壁の圧迫感等を手がかりにして歩くのであるから、左右に曲がることなくまっすぐに歩くことは困難なのである。「5センチ」と言うが、視覚障害者にとっては5センチ程度のずれはまっすぐのうちである。「もう少し左」と言うが、「もう少し」とは晴眼者の感覚であって、視覚障害者にはどの程度か判別できない。
 私が視覚障害者であることは理解されているが、5センチや10センチ程度右や左に寄って歩くのは視覚障害の特性の一つであるという認識がもたれていないのである。ここにおいても、視覚障害者に対する理解と認識のずれが生じているのである。
 

 ウ.前からきた人が声をかけてくれるときに左右をまちがえる例。

 私がほぼ毎日歩いている道は自動車も通るが道幅は狭い。そのうえ道の両側には自転車が止めてあったり、看板が出ていたり、商品が置いてあったりする。したがって、たいへん歩きにくい。道の真ん中を歩いているつもりであっても、左右のどちらかに寄ってしまう。自転車にぶつかると倒れるし、その横に止めてある自転車まで倒れてしまう。そのまま放置しておくと危険なので、倒れた自転車を起こそうとすると、たいてい誰かがやってきて自転車を起こしてくれる。ありがたいことである。
 こんな状況で道を歩いているので、いろいろな人が声をかけてくれる。前からやってきた人の多くは、「右に寄り過ぎ、ちょっと左に寄った方がいい」と声をかけてくれるので、左によると「それは右や」と言う。つまり、その人は自分から見て「左」と言っているのであるが、私から見るとそれは「右」になるのである。
 このように、前からやってくる大人が声をかけてくれるときには、ほとんどの場合、自分から見て左右を示す。本来は相手から見て左右を告げるのが声のかけ方である。小学生らしい子どもが声をかけてくれることもある。その場合は必ず私から見て左右を告げてくれる。子どもたちは学校で相手に対する左右の示し方を習っているのであろう。現在の大人も子ども時代には、相手から見ての左右を告げることを学んだはずではないだろうか。
 目が見えないゆえに視覚障害者は道をまっすぐ歩くことが困難であることは多くの人が理解しているが、正しい伝え方を認識していないことによるずれが生じるのである。
 

 エ.置いてある物の位置を知らせるときの例。

 「一寸先は闇」という言葉があるが、全盲の視覚障害者にとっては「1センチ先は闇」である。つまり、全盲の者は置いてある物を探すときには、一般的には手探りでするので、1センチはずれても目的の物は探せないからである。「一般的には」と記したのは、最近ではITを利用して、タグを付けておくと、そこから音が出るので、探しやすくなる方法もあるからである。
 晴眼者が言う「同じ場所」と、視覚障害者が言う「同じ場所」では相当の違いがある。「爪切りはどこに置いた?」と晴眼者の家族に尋ねると、たいてい「いつもの場所」と答える。しかし、いつもの場所にはない。そこら辺を探っていると、いつもの場所から15センチほど離れたところに置いてあった。
 晴眼者にとっては15センチや20センチ離れていても、目で見れば「それは同じ場所」になるかも知れないが、全盲の者は手で探って探すのであるから、それだけ離れていたら「同じ場所」とはいい難いのである。
 15センチ程度ならまだ探しようがある。物を落としたときに、「足元にある」と言われたので、手で探ってもなかなか手に触れない。足元というのは、目で見たらすぐにわかるだろうが、手で探って探すにはあまりにも範囲が広すぎるのである。
 視覚障害者は目が見えないので、物を探すには手を使うということを理解していても、手の届く範囲であってもすぐに探せるものではないという認識までには至っていないことが多々ある。ここにおいても、理解と認識のずれがある。
 

 オ.ティッシュボックスから最後の1枚のティッシュを抜き取ったときの例。

 大学の教員をしていたとき、墨字(目の見える人が使っている文字のこと)資料を読むために、自分の給料で個人的に助手を雇っていた。その人は点字に習熟しており、視覚障害者との付合いも非常に長く、経験も豊富であった。
 あるとき次のようなことを言われた。「ティッシュの箱が空っぽになったのなら言ってください」と。
 最初は何を言っているのか判らなかった。よくよく聞いてみると、私がティッシュの箱に入っていた最後の1枚を使ったので空っぽになったとのことである。
 ティッシュの箱から抜き取ったティッシュが、最後の1枚だったと判るのは晴眼者だからである。視覚障害者が抜き取ったものが最後の1枚であることは判りようがない。なぜなら、目で見るから箱の中が空っぽであることが判るのであって、目で見ることのない視覚障害者にとっては、最後の1枚なのかどうかは判りようがないからである。たとえば、ティッシュを抜き取るたびに箱を触るのであれば、「まだ入っている」とか「最後の1枚だった」とかが判るのであって、毎回毎回箱を触るような視覚障害者はおそらくいないはずである。
 このようなことを言われたのは助手からだけではない。ほかの晴眼者からも言われたことがあった。
 視覚障害者は主として触って物を確認するということを理解していても、常に触って確認するようなことはない場合があるということの認識に欠けているのである。ここにおいても、視覚障害者に対する理解と認識にずれがあるのである。
 

 カ.医療関係者が声かけをしてくれるときの例。

 私は医者にかかることは極めて少なかった。最近は後期高齢者になるほど歳をとったせいか、ときどき医者にかかることがある。病院に1人で行くことはできるが、書類書きや病院内での移動のためにガイドヘルパーと一緒に行くことにしている。
 私が通うどの医療機関の関係者もたいへん親切である。診察内容はきちんと私自身に向かって説明をしてくれる。
 しかし、レントゲンを撮るときや、心電図をとるときに、いつも「なぜなのだろうか」と思うことがある。それは、レントゲンや心電図をとるときの担当者が、例外なく同じようなことを言うのである。それは、「服を脱げますか?」「服を着ることができますか?」である。親切心からの声かけかもしれないが。
 視覚障害者は目が見えないのであって、手足が不自由だということではない。手が不自由なら服を脱いだり着たりするのはたいへんつらい思いをするかも知れないが、目が見えないだけなので、服を脱いだり着たりするには不自由さはない。
 視覚障害者は目が見えないということを医療担当者は理解している。視覚障害者は衣服の着脱も困難だとの認識なのだろうか。それとも単なる親切心からの声かけなのだろうか。視覚障害者に対する理解と認識のずれとまではいわないが、何だかすっきりと割り切れない感じをいつも抱いてしまう。
 

 キ.電車の中で聞こえてくるささやき声の例。

 私はほぼ毎日のように外出しており、そのたびに電車に乗っている。電車に乗った瞬間に、満員であるか乗客が少ないかは判る。音の反射や圧迫感によって判るのである。ガラガラに電車の中はすいていたとしても、どの席があいているかが判らないので、いつも扉のところに立っている。
 あるとき扉のところに立っていると、若い女性たちのささやき声が聞こえてきた。「目の悪い人が立ってはる。席があいているのになぜ座らないんやろうか?」「座りたくないのんと違うか!」と。
 まさに視覚障害者に対する理解と認識がずれている最たる事例である。
 私は白杖を持っているので、私が視覚障害者であることは理解されている。しかし、目が見えないということは、どこの席があいているのかが判らないという認識までには至っていないのである。「座りたくない」から立っているのではなく、「座りたいけれども」どの席があいているか判らないので、仕方がないから立っているということに気づかないのである。

 

(2)以上述べてきたような理解と認識のずれを正すにはどうすれば良いのか。それはたいへん難しい。しかし、少なくとも次の二つのことを実践するならば、理解と認識のずれを生ぜしめないようにすることができるのではないかと私は考えている。

 ア.頭の中で理解するだけではなく、自分自身が視覚障害者になったつもりで、さまざまな角度から考える習慣をつけること。

 前述した(1)のア.~キ.の状況について、視覚障害者の立場に立って考えてみることである。
 また、これら以外の場面を想定して考えたり、現実に視覚障害者に出会ったときにどうすればいいのかをその都度考えたりすることである。
 とはいえ、なかなか難しいだろう。さまざまな場面を想定することも、視覚障害者の立場に立つことも、そうたやすくできるとは思われないので、「なかなか難しいだろう」といわざるを得ないのである。しかし、社会の人々には「難しい」かも知れないが、ぜひとも心がけてもらいたいと私は願っている。
 

 イ.機会あるごとに、視覚障害者と接する努力をすること。

 視覚障害者に関する書物はたくさん出版されている。それらを読むことも必要である。しかし、読んだ後には、視覚障害者に対する知識は広がり、理解は深まるだろうが、理解と認識のずれを正すには単に読むだけではなく、深く考える必要がある。とはいえ、何をどのように考えたらいいのかは簡単には説明し難い。
 したがって、深く考えるために、視覚障害者に実際に接することである。街中を歩いていても、電車に乗っても、視覚障害者に出会うことがあるはずである。出会ったときには積極的に手助けをする旨の声かけをしてみたらいいのではないだろうか。接することによって、頭の中だけの知識であったものが、視覚障害者の生の声とその知識が具体的に結びつくと私は考えている。
 とはいえ、見ず知らずの人に声をかけるのは勇気のいることである。ぜひに勇気を奮い起こして、視覚障害者に気軽に声をかけていただきたいと私は願っている。
 声のかけ方は、「大丈夫ですか?」は避けてもらいたい。なぜなら、「大丈夫ですか?」と言われたら、多くの視覚障害者は「大丈夫です」と答えるかも知れないからである。したがって、声のかけ方は、「何か手伝いましょうか?」とか「何か困っていませんか?」とか「道に迷っているのですか?」等々がいいでしょう。

 

おわりに

 学校における人権教育や、さまざまな事業体における人権研修等によって、視覚障害者のみならずさまざまな障害者に対する理解が進んでいることは多言を要しない。しかし、その「理解」は頭の中の知識としてなされているのである。
 繰り返して強調しておくが、障害者に対する「理解」と「認識」にずれが生じないようにするためには、生身の障害者に機会あるごとに接することが肝要である。そうしてこそ、「理解」と「認識」のずれを正すことができるというものである。

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