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お知らせ
2023.11.20
愼英弘の部屋
今回は視覚障害児統合教育を取り上げて、そこにおける視覚障害児への点字教科書保障の状況と、今日においての課題を紹介する。
統合教育とは、障害のある児童や生徒と障害のない児童や生徒を同じ場所で教育することである。つまり、健常児が通っている地域校(一般校)に障害児を受け入れて、両者を同じ場所(学校・学級)で教育する教育体制のことである。これに対して、障害のある子とない子とを別々の場所(学校)で教育する体制のことを分離教育という。
「視覚障害児統合教育における点字教科書保障への道」
はじめに
日本の盲教育(視覚障害教育)が始まって145年になる。日本点字が翻案されるまでは、全盲の者が自由に簡単に読むことができる教科書はなかった。1890(明治23)年に日本点字が翻案されたことによって、盲教育のための点字教科書の製作と発行の努力がなされるようになった。そしてそれは、時を重ねるにつれて充実していった。特に全点協(正式名称は、全国盲学校生徒点字教科書問題改善促進協議会)運動が、盲学校における点字教科書保障の制度化に及ぼした影響は計り知れない。全点協運動が終結した後も、盲学校における点字教科書の保障状況は徐々に充実していった。
しかしながら、そのような状況は盲学校における点字教科書の保障であって、統合教育を受けている視覚障害児には関係がなく、その状況は今日まで長く続いている。
ここでは、統合教育における点字教科書が、盲学校におけるそれとは別の方式で、「保障」されるようになっていく流れの一端について述べることにする。
1.分離教育の始まり
(1)学制の公布
江戸幕府が崩壊した後、明治政府は教育体制の充実を図るために、1872(明治5)年に“学制”を公布した。これは、教育機関である学校制度や教員等についてその内容を定めたものである。
その学制における小学校の項の第二十一章において、障害児学校の規定が設けられた。すなわち、「其外廢人學校アルヘシ」との規定が設けられ、健常児の通う学校とは別の学校、つまり障害児が通う学校を規定したのである。
これによって、日本の障害児教育は、健常児とは別の学校で教育するという分離教育を原則とすることが明確にされたのである。しかし、明治政府は障害児のための公的な学校(官立や道府県立等)を設置することはなかった。当初の障害児学校は民間人によって始められた。
(2)盲教育の開始
民間人による障害児教育の取組みは、京都と東京において始められた。1878(明治11)年に“京都盲啞院”、1880(明治13)年に東京の“楽善会”の“訓盲院”(その後には訓盲啞院)において視覚障害児や聴覚障害児に対する教育がなされるようになった。この2機関における教育を除いて、明治の後半までの視覚障害児教育は地元の学校でなされていた。それを「統合教育」とよぶ教育概念は当時にはなかった。
(3)戦後も分離教育が続く
1879(明治12)年に“教育令”が制定されることによって学制は廃止されたが、分離教育は引き継がれた。教育関係の法律は、その後も制定と廃止が繰り返されたが、分離教育は日本の教育体制として維持され続けた。
第二次世界大戦が終結すると、教育体制は大きく変わった。しかし、“学校教育法”が1947(昭和22)年に施行され、視覚障害児教育は学校教育法の中で、分離教育であることがそのまま引き継がれた。同法の第一条において学校を定義しており、そこにおいて盲学校が規定されたことをもって、明治以来の分離教育は変わることがなかったのである。
戦後の社会における大きなうねりは人権保障の波である。人権保障を求める運動の高まりの中で、視覚障害児統合教育を求める動きが現れるようになった。
2.点字教科書発行の動き
(1)学校関係者の取組み
京都盲啞院や楽善会の訓盲啞院は、その後「盲啞学校」となり、明治時代に翻案された日本点字は、その盲啞院や盲啞学校で使用されるようになる。授業中に生徒は点字で必要なメモをとり、授業内容を視覚障害者が自由に読み書きができる点字で記録するようになった。しかし、教育のために欠かすことができない教科書は、まだ点字で製作されるまでには至っていなかった。
1923(大正12)年、勅令第三七五号をもって“盲學校及聾啞學校令”が公布され、翌年4月1日から施行された。そのなかで、教科書についても定めていた。
同令の第二条において道府県に盲学校の設置を義務づけ、第三条において盲学校の経費は道府県の負担とすることが定められた。これによって、盲学校教育は全国的に広がっていくこととなるが、就学の義務化は規定されなかった。
第九条において、盲学校における「教科書ハ學校長ニ於テ地方長官ノ認可ヲ經テ之ヲ定ム」と、教科書に関する規定が設けられた。これによって、点字教科書発行への道が開かれ、それは盲学校を対象にしたものであった。
法的定めに先立つこと5年前には、点字教科書発行の努力がなされていた。すなわち、1918(大正7)年に開催の“第5回全国盲啞教育大会”において、東京盲学校(現・筑波大学付属視覚特別支援学校)は、教科書を点訳していることを発表した。ちなみに、盲啞学校の分離を求める動きがあり、“東京盲啞学校”は、1909(明治42)年に“東京盲学校”と、翌年に“東京聾啞学校”とに分離されている。
前述の学校令が施行されたとはいえ、充分な教科書作りがなされていなかったため、1925(大正14)年には、大阪市立盲学校(現・大阪府立大阪北視覚支援学校)の同窓会が出版部を開設し、盲学校で使用するための点字教科書の発行を開始した。
学校現場や同窓会による点字教科書作りから遅れながらも、国(文部省)による点字教科書発行がなされるようになった。1929(昭和4)年、文部省が盲学校用点字教科書を初めて発行したとされている。『初等部用国語読本』である。私が実際に手に取って触れてみたもっとも古い点字教科書は、1929年2月に文部省が編纂して同年5月に“大阪毎日新聞社”(現・毎日新聞社)が点字製版して発行した『高等小学算術書』の第2学年用である。
大阪府立中央図書館には、戦前の点字教科書18冊が所蔵されており、文部省の「認定」「編纂」「認定発行」等となっている。いずれも国定教科書である。18冊すべてが大阪毎日新聞社によって点字製版と印刷がなされ、点字教科書として発行されている。ちなみに、現在の点字教科書は、点字製版と印刷をする施設が戦前とは異なるだけであって、日本ライトハウス等の民間の点字出版施設で製版と印刷がなされており、点字教科書の発行方法は戦前と同じような状況である。
(2)点字教科書保障運動
戦後の盲学校は、学校教育法によって一条校に位置づけられ、9年間の義務教育制度が樹立された。
しかし、盲教育は義務化されたものの、1950年代半ばに至っても、義務教育においてさえ点字教科書はすべてが揃うという状況ではなかった。高等部は義務教育ではないということで、点字教科書は制度として保障されていなかった。
このような状況の中、「せめて一揃えの教科書を!」をスローガンに、点字教科書の保障を求めるため、1955(昭和30)年に“全国盲学校生徒点字教科書問題改善促進協議会”(略称は全点協)が結成された。各地の盲学校から生徒たちが東京に集まり話し合いをし、点字教科書の保障を求めるための署名集めをするとともに、行政に対して働きかけをした。
全点協の運動の結果、1956(昭和31)年には盲学校高等部における点字教科書の保障に道が開かれた。
私は8才の時に原因不明で失明した。3年ほど家の中での生活を送っていたが、1958(昭和33)年の7月に大阪市立盲学校の小学部3年生に編入した。小学部時代を通じて社会科や理科の点字教科書はなかった。中学部に入っても、社会科の地理の教科書はなかった。数学の点字教科書はあったが、弱視クラスの墨字(目の見える人が使っている文字のこと)教科書とは内容が異なっていた。1965(昭和40)年の高等部1年生の時の地理の教科書はなく、1967(昭和42)年の3年生の時の物理の教科書もなかった。これら以外のいくつかの教科書もなかった。
全点協運動等によって、その後、盲学校における点字教科書の多くは保障されるようになったが、統合教育でのそれは1980年代半ばに至ってもほとんど保障されないままであった。
3.視覚障害児統合教育の幕開け
(1)小学校における視覚障害児統合教育
日本における視覚障害児統合教育の幕開けは、1975(昭和50)年と位置づけることができる。
同年以前であっても、視覚障害児がいわゆる「地域校」に通っていたケースがあったことを否定するものではない。それは特に弱視児に見受けられる。
1975年に墨字が見えない6人の視覚障害児が、関東地方の公立小学校への入学を実現させた。これをもって、日本における視覚障害児統合教育の幕開けとすることができる。
同年5月3日に、埼玉県で統合教育を実現させた親子を取り上げた番組が、NHKテレビで放映された。「友だち100人できるかな」と題したその番組を見た人がいるだろう。私はその番組の内容に引き込まれたことを今も鮮明に思い出すことができる。
統合教育は実現されたものの、それは「点字教科書の保障はしないとする教育委員会側の姿勢を受け入れざるを得ない」ことと「引換え」にであった。このことが、その後の視覚障害児統合教育における児童・生徒とその保護者が、苦難の道をたどる大きな要因の一つになるのである。すなわち、統合教育を求める側は、点字教科書を自らの力で準備しなければならないような状況であった。地域によっては、教育委員会が教科書の点訳を外部の団体等に依頼するところもあったが、入学時点ではそのようなそぶりは見せないのが一般的であった。
(2)高校における視覚障害児統合教育
1978(昭和53)年には、宮城県教育委員会が、全国で初めて公立高等学校への入学試験における点字受験を認め、公立の高等学校における視覚障害児統合教育が始まった。
統合教育における点字教科書に対する対応は、自治体によって大きく異なっていた。義務教育の場合は、制度としては点字教科書を保障しないが、勉強するのに不利にならないようにするため、教育委員会や学校側がしかるべきところに教科書の点訳を依頼して、点字教科書を準備するところもあれば、一部の教科書のみ点訳して供給するところもあれば、さまざまであった。そのような状況は、高等学校における統合教育においても同様であった。点訳されない教科書については、家族が準備せざるを得なかったのである。
統合教育において点字教科書が制度として保障されなかったのは、義務教育であろうが高校教育であろうが、統合教育は当時の文部省の指向する教育制度の枠外のものとして位置づけられていたからにほかならない。
文部省による制度上の保障がなかったため、統合教育を受けている視覚障害児童・生徒が使用する点字教科書を準備するか否かは、前述したように、所管する地域教育委員会の姿勢いかんにかかっていた。すなわち次の三つに分かれる。
これらの教科書の点訳は、教育委員会には、教科書を点訳するノウハウも技術もないので、外部のボランティア団体や有料点訳者等に依頼して行われていた。
4.大阪における点字教科書の保障を求める運動
(1)教科書点訳委員会の結成
統合教育を受けている視覚障害児が使用する点字教科書は、これまで述べてきたように、教育委員会や学校によって制度としては保障されなかった。したがって、教科書点訳の取組みが民間の有志によってなされるようになった。
大阪における民間人による組織的な教科書点訳の始まりは、大学の点訳サークルであり、それは大阪府・高槻市の小学校から中学校に上がる視覚障害児の国語の教科書の点訳依頼が点字図書館の職員を通じてあったことによる。そして、その点訳活動は組織化されるようになる。
1983(昭和58)年11月、統合教育を受けている視覚障害児のために、教科書の点訳をする団体として“教科書点訳委員会”(略称は教点委)が有志によって大阪で組織化された。教点委に参加したのは、大阪の周辺にある大学の点訳サークルや、個人的な点訳ボランティア、点訳を有料で請け負っている点訳者等である。
教点委結成の背景としては、学生の点訳者は卒業してしまうと関わることが少なくなり、そのために点訳の均一化が図りにくいので、良い点字教科書を作るためには組織化の必要性があったからである。
(2)教科書点訳委員会の活動
教点委結成のときに目標を六つ掲げ、それを趣意書に盛り込んだ。その六つの目標とは次のようなものである。
(3)求める会の結成とその活動
教点委による教科書点訳の活動をする一方で、統合教育における点字教科書の保障を実現させるための組織を結成する動きが現れた。
1986(昭和61)年8月、大阪で統合教育に関わっている有志が集まって“地域の学校で学ぶ視覚障害児(者)の点字教科書等の保障を求める会”(略称は求める会)が結成された。結成に参加したのは、統合教育を受けている視覚障害児の保護者や、教科書の点訳者、支援をしてきた視覚障害者等である。
求める会は結成時の趣意書において、公的に実現すべき4項目の目標を掲げた。
以上の内容を実現させるために求める会は大阪府との交渉を重ねた。その一方で、日常的な活動がなされた。
求める会は、視覚障害児統合教育における点字教科書等の保障を実現させるために活動する全国で唯一の組織である。
求める会が結成当時に行った主な活動は、①府教委(大阪府教育委員会)との話し合い、②署名活動と大阪府議会への請願、③例会の開催、④会報の発行等である。
求める会が府教委に対して行っていた要望内容の主なものは次の7点である。
府教委に対して、求める会は粘り強く高校用の点字教科書等の保障を求める要望を繰り返して行った。
求める会の活動の結果、結成後数年で、高校に通う視覚障害児が使用する教科書のすべてが、大阪府教育委員会の責任において点訳されるようになった。しかし、それは制度として保障されたものではなく、府教委の見解は「授業に支障を来さないようにするため」とのことである。
視覚障害児が使用する教科書を点訳して供給しているにもかかわらず、それは「制度として保障しているのではない」とされるのは、ただ単に地域教育委員会が文部省の顔色を気にしているからにほかならない。なぜなら、統合教育は文部省の指向する枠外の教育であるとするからであり、分離教育体制を否定するものと捉えられることを気にしてのことだからである。
(4)求める会の会員の拡大と活動の広がり
求める会結成当初の会員はほとんどが大阪府周辺に居住している者であったが、結成後20年ほど経過した頃には全国に広がっている。
会員の拡大に伴って、求める会の活動は、大阪府教委のみを対象にして働きかけるだけではなく、国会議員への働きかけも行うようになっていった。
5.国による教科書点訳費用の保障
(1)点訳費用保障の実現
弱視児の使用する拡大文字の教科書も、統合教育の点字教科書と同様の状況であった。すなわち、一般的に使われている教科書の文字が見えない弱視児は、その文字を拡大した教科書を使っていた。その拡大文字教科書は、ボランティアや家族等によって、手書きで作成されていた。それには多くの時間と労力を必要とした。
そこで、拡大文字教科書の保障を求める運動が、家族や支援者等によってなされた。その結果、2003(平成15)年度から、拡大文字教科書を作成するための費用が、国の予算によって保障されるようになった。
拡大文字教科書保障の実現は、統合教育における点字教科書の保障を求める運動に影響を及ぼすこととなった。拡大文字教科書の保障は、統合教育の点字教科書保障実現の可能性への一条の光となり、関係者に勇気と希望を与えた。
拡大文字教科書保障の実現を背景に、求める会は運動を展開した。
大阪府から選出されていた野党の衆議院議員に対し、求める会は、統合教育における点字教科書保障の実現を訴えた。その議員は、国会において、点字教科書について質問するとともに、点字教科書の保障を求める要望をした。
この議員の活躍によって、2004(平成16)年5月28日、衆議院文部科学委員会において政府は、義務教育段階の統合教育を受けている視覚障害児童・生徒が使用する教科書の点訳費用を国が保障することをついに表明した。それは、同年9月から実施されることとなった。
この表明を受けて求める会は、同年6月8日、文部科学省との話し合いをもち、手続き方法等の詳細にわたって話し合った。
(2)新たなる全国的組織の結成
文部科学省との話し合いでの内容も踏まえて、点字教科書保障の充実を図るため、求める会は教科書点訳のための全国的な組織を結成することを提案し、結成の準備に取りかかった。
2004(平成16)年11月の準備会を経て、2005(平成17)年1月11日、“全国視覚障害児童・生徒用教科書点訳連絡会”(略称は教点連)が設立された。
教点連の目的と活動は次のようなものである。
教点連の目的は、点字教科書の質の向上と安定供給を図ることである。すなわち、設立趣意書において、地域校で学ぶ視覚障害児が使用する点字教科書の国費保障制度を有効に機能させ、「点字教科書製作者等が相互支援・連携体制を構築し、これまでの諸課題を解決するとともに、点字教科書を必要とするすべての子どもたちに等しく、満足のいく点字教科書の安定的な供給を図っていくことが必要である」と謳われている。
教点連の活動、すなわち具体的な事業としては、主として次の五つに取り組むことがあげられている。
教点連は前述の目的を達成するために、点訳ボランティアへの呼びかけ、図や表の点訳のための研修会の開催、専門点訳ボランティアの育成等の活動を展開している。
教点連の活動は、文部科学省の委託によって行われているものではなく、あくまでも民間人の力を結集した活動である。任意の民間に任された活動とはいえ、活動への期待は大きいものがある。それは、これまでの統合教育を支えてきたのは任意団体や個人の支援者が中心であったものが、視聴覚障害者情報提供施設等が同教点連の中心を担っているからである。
(3)国による保障の問題点
国による教科書点訳費用の保障制度には、少なくとも次の4点の問題点がある。
この「1.」の内容について一言すれば、盲学校に通う児童・生徒には点字教科書という現物が供給されるが、統合教育を受けている視覚障害児童・生徒には点字教科書という現物ではなく、墨字の教科書を点訳するための費用が支払われるという異なった方式での点字教科書の提供になっているのである。また、前者の教科書は“教科用図書”であるが、後者の教科書は“教科用特定図書”という位置づけなのである。
2008(平成20)年6月18日、“障害のある児童及び生徒のための教科用特定図書等の普及の促進等に関する法律”(教科書バリアフリー法)が制定された。同法によって、統合教育を受けている視覚障害児童・生徒の点字教科書問題は全面的解決に向けた道が開かれるはずであったが、前述の4点の問題点は、現在においてもまったく改善されていない。果たして、教科書バリアフリー法は、これら4点の問題点を解決し、点字教科書保障を進展させていくのだろうか。
特に、同法の附則第二条において、高等学校の生徒への援助のあり方について検討を行い、その結果に基づいて所用の措置を講ずる、と規定されたが、同法制定から15年を経過した現在まで何等の措置もとられていない。
おわりに
統合教育を受けている視覚障害児童・生徒が使用する点字教科書が、国の責任において点訳費用の保障という形ではあれ保障されるようになったのは、ひとえに当事者とその家族及び支援者の粘り強い運動があってのことである。
とはいえ、教科書以外のさまざまな教材の点字化は制度としては実現していない。また、高等学校の視覚障害生徒の点字教科書は、都道府県教育委員会や学校の努力で、制度としてではなく供給はされているが、国(文部科学省)による制度としての保障はなされないままである。
この二つの課題、すなわち教科書以外の教材の点訳と高等学校の点字教科書の保障という課題を早期に解決する必要があることは多言を要しない。これらの課題が解決されてこそ、視覚障害児統合教育は視覚障害児にとって実りのある教育制度となるのである。
昨今ではインクルーシブ教育が声高に叫ばれているが、地域の学校で学ぶ視覚障害児が使う点字教科書の問題については、管見の限り、新しい動きはないままである。
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