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愼英弘の部屋VOL.8 「日本の盲ろう者福祉実現までの歩み」

 今回は、目と耳の両方に障害があるいわゆる「盲ろう者」への固有の福祉サービスが実現するまでの簡単な歩みを述べることにする。
 なお、盲ろう者の実数は明らかではないが、およそ2万人と推定される。したがって、およそ人口6500人に1人は盲ろう者と推定される。

 

「日本の盲ろう者福祉実現までの歩み」

 はじめに

 戦後になって初めて、身体障害者を対象にする法律“身体障害者福祉法”が制定されてから今年の12月で丸74年になる。この間に知的障害者を対象にする法律“知的障害者福祉法”や、精神障害者等を対象にする法律“精神保健及び精神障害者福祉に関する法律”も制定された。そして今日では「障害者総合支援法」によってさまざまな福祉サービスが提供されるようになった。
 これらの法律によって、障害者への福祉サービスが展開されているが、最重度の障害者に対する福祉サービスは、充分であるとはいい難い状況がある。とりわけ、目と耳の両方に障害があるいわゆる「盲ろう者」に対するそれはまさにそうである。
 ここでは、日本における盲ろう者福祉の歴史を明らかにするために、盲ろう者についての認識、当事者運動の展開、盲ろう者固有の福祉サービスの制度化、の3点に焦点を当てて述べることにする。
 なお、目と耳の両方に障害がある者を“視・聴覚二重障害者”とか、“視・聴覚重複障害者”とかさまざまな名称で呼ばれているが、ここでは、現在、当事者団体が広く使用している「盲ろう者」という名称を用いる。

1.盲ろう者についての認識

 盲ろう者として世界的に知られているのはヘレン・ケラーである。しかし、ヘレン・ケラーは目が見えず、耳が聞こえず、話すことができない三重障害だと思っている人がいる。それは誤りである。ヘレン・ケラーは筆舌に尽くしがたい努力によって、声を発することができるようになった。現に、ヘレン・ケラーが話をしている声を録音した記録が残っている。したがって、ヘレン・ケラーは三重障害ではなく、視・聴覚二重障害、すなわち盲ろう者なのである。

 

(1)ヘレン・ケラー最初の来日

 1937(昭和12)年にヘレン・ケラーが初めて来日した。そのとき、当時の文部省と外務省を中心にして、盛大な歓迎会を開くこととなり、貴族院議員の德川家達を歓迎会委員会長に推戴した。
 4月18日の挙国的な大歓迎晩餐会の席上での政府関係者の挨拶の一端を紹介しよう。
 林銑十郎首相は挨拶で次のように述べた。「私は不自由な身体をもって、遙々、日本の盲啞者に光明を与えるため来朝された女史の篤き志に深く感謝します。私は人間の努力が人間の能力の上にいかに奇跡的な力を齎すかを、女史において知りました。私は女史が我が国民生活の中に日本精神と日本文化をよく把握され、日本の最も良き理解者となられることを信じて疑いません」(『東京朝日新聞』1937年4月19日付)。
 ここでいわれた「盲啞者」は、ヘレン・ケラーのような「盲ろう者」をさしているとはいい難い。もしも「盲ろう者」を念頭においていたならば、「日本の盲聾啞者に光明を与える」と述べるはずである。
 日本では、当時、「盲啞者」といった場合、「盲」すなわち視覚障害と、「啞」すなわち聴覚障害の別々の障害のある人をさしていた。換言すれば、視・聴覚二重障害者である「盲ろう者」の意味で使われてはいなかった。ちなみに、「啞」は話すことができないこと、すなわち言語障害をさす表現であるが、当時は聴覚障害の意味で用いられていた。
 したがって、ヘレン・ケラーが来日したとはいえ、政府関係者はヘレン・ケラーのような二重障害である盲ろう者が日本にも存在するということには考えも及んでいなかったといえる。
 換言すれば、単一障害である「盲人」とは質の異なる特別な困難をもつ二重障害である「盲ろう者」という障害の認識はなかったと思われる。
 1948(昭和23)年8月、日盲連(日本盲人会連合)(現在の日本視覚障害者団体連合)が結成された。同結成大会の初日(1948年8月17日)、挨拶にたった竹田儀一厚生大臣は次のように挨拶した。「盲人に関する社会的関心は、近年次第に高まりつつありますが、これは社会の少数の恵まれざる人々の力をより善く発揮して、盲人のみならず社会全体の幸福をもたらそうという民主社会の基本的精神に基づくものでありますが、殊に、ヘレン・ケラー女史を迎えて、女史によって愛盲運動が全国的に展開され、国民の関心は一段と高められることと信じます」(『日本盲人会連合50年史』1998年、48頁)。竹田厚生大臣は「愛盲運動」と述べているにとどまっており、「愛盲ろう運動」という観念はなかったといえる。
 結成大会で日盲連の基本的方針が採択され、その決議文の5項目の中に次のようなものがある。

①「我々は、日本盲人の福祉と文化の向上のため、平和の戦士たらんことを期する」
②「我々は、世界的標準に立つ盲人社会立法の制定を期する」
③「我々は、盲、ろう、啞義務教育の完全なる実現に協力する」

 この③の「盲、ろう、啞」とは「盲ろう者」のことではなく、「盲」すなわち視覚障害者、「ろう、啞」すなわち聴覚障害者をさしているのである。

 以上の挨拶や決議文からして、政府関係者も、日盲連関係者も、ヘレン・ケラーは「盲」であり「ろう」である「盲ろう者」という認識はもっていたとしても、日本における“盲ろう者の存在”は認識していなかったといわざるを得ない。すなわち、「盲ろう者」のために何をなすべきかは、まったく示されていなかったことからもそれは明らかである。

(2)ヘレン・ケラー2度目の来日

 日盲連の初代会長の岩橋武夫は、ヘレン・ケラーに、日盲連結成を機に来日を要請し、1948(昭和23)年8月29日に2度目の来日が実現した。
 来日1週間後の9月4日に皇居前広場で開かれた“ヘレン・ケラー女史歓迎国民大会”には約5万人の聴衆が集まった。
 その聴衆に向かってヘレン・ケラーは、今日に伝わる有名な次のような言葉を残した。
「いまや新日本のレイ明は皆さまのうえにかがやきはじめました、私がねがうことは皆さまのもつているランプの燈をいま少し高く差あげて道を照らしてやつて下さい、さすれば盲目の人達も光明を與えられて新らしい生活の途が拓かれるのです」(『毎日新聞』1948年9月5日付)。
 ヘレン・ケラーの講演内容に多くの人々が感動したことは改めていうまでもないだろうが、ヘレン・ケラーがどのような障害であるかを正しく認識していた者はほとんどいなかったといっても過言ではない。ヘレン・ケラーは目が見えないし耳が聞こえないということは認識していたとしても、それがどのような障害状態であるかという認識はなかったといえる。更にいうならば、戦後の間もない時期において、社会の人々は日本に盲ろう者が存在することの認識はなかったといえる。

(3)学校現場における盲ろう者についての認識

 前述したように、日本社会に盲ろう者が存在することについての認識は、一般的にはなかったといえるが、教育の世界、とりわけ学校現場においては、盲ろう者の存在が認識されていた。
 1949(昭和24)年から山梨県立盲学校において、盲ろう児3名に対する盲ろう教育が行われていた。そして、点字を使っての一定のコミュニケーションがとれるまでになった。
 このように、盲学校における盲ろう児への教育実践があるとはいえ、日本における盲ろう教育は、学校教育法の“特殊教育”の中にも、その他の関係法規の中にも位置づけられていなかったので、関心と熱意のある一部の教師と研究者によって取り組まれていたにすぎなかった。
 それ故、盲ろう児のうちで、1974(昭和49)年までに義務教育を修了した者は、わずかに3名であると報告されている。
 したがって、学校現場では盲ろう児の存在は認識されていたとはいえ、それは一部の盲学校においてであり、決して一般的状況ではなかった。

2.当事者運動の展開

(1)盲ろう当事者運動の開始

 盲ろう者への固有の福祉サービスの必要性は、戦後30有余年経過しても福祉行政関係者には認識されていなかったが、一部の民間人には認識されていた。実際にそのサービスを提供するための取組みが1980年代初頭には行われていた。それは、2人の盲ろう学生の登場による。
 この2人の盲ろう学生の大学生活を支援するために、「通訳・介助」という支援サービスを提供するための組織が、東京と大阪にそれぞれ結成された。そして、2人の盲ろう学生が卒業後、これらの組織を改編して、東京と大阪に“盲ろう者友の会”という組織が結成され、盲ろう当事者運動が開始された。
 そして、盲ろう者への固有のサービスである「通訳・介助者の派遣」は、民間団体であるこの友の会によって取り組まれた。「通訳・介助者の派遣」とは、盲ろう者がコミュニケーションをとったり情報を入手したりするときの媒介すなわち「通訳」をすることと、安全に移動するためのガイド(手引き)をすることを支援する人を派遣することである。
 「通訳・介助」という盲ろう者の固有の福祉サービスの必要性が行政の側に認識されるようになるのは、東京と大阪で友の会結成に向けて動き出した頃であり、決定的には、1991(平成3)年に“全国盲ろう者協会”が社会福祉法人として組織されたことによる。
 すなわち、全国盲ろう者協会は、盲ろう者への固有のサービスである「通訳・介助者」の派遣を行う“訪問相談員派遣事業”を開始した。そのときに当時の厚生省の協力があった。その協力とは、厚生省が同事業への財政的援助をしたことである。とはいえ、その財政的援助は国家予算によるものではなく、“社会福祉・医療事業団”からの財政的援助が実現するように力を尽くしただけのことであった。
 このように、国や地方行政関係者に“盲ろう者の存在”が明確に認識されるようになったのは、盲ろう当事者やその支援者が声を大きく上げたことによるのである。

(2)盲ろう者福祉の幕開け

 地方行政としては、1996(平成8)年になって初めて、東京都と大阪市とで、盲ろう者への固有の福祉サービスである通訳・介助者派遣事業が開始されたのであった。これをもって、日本の盲ろう者福祉の幕開けと位置づけることができる。

 東京都では、通訳・介助者を派遣するための経費として約1千万円を、“東京盲ろう者友の会”に定額補助金として助成する制度を開始した。大阪市では、盲ろう者に対して月に32時間の通訳・介助を受けるための個人保障をする制度を開始した。大阪市ではこの制度を“ガイド・コミュニケーター派遣事業”と命名した。

 このように、行政による盲ろう者固有の福祉制度の幕開けは地方行政からであり、国の側での盲ろう者福祉の制度化は、これから10年も後の“障害者自立支援法”の制定以後のことである。

 20世紀の最後の年になって、やっと国の制度として“通訳・介助員派遣事業”の試行事業が始まるが、3年間の試行事業を経ても、盲ろう者固有の福祉サービスである通訳・介助者の派遣事業は制度化されなかった。

 このような状況にいたるまでには、ヘレン・ケラーが最初に来日してから60有余年の時日が経過している。また、いくつかの地方で盲ろう当事者や支援者が集って“盲ろう者友の会”というような名称の組織を結成して声を上げるようになってからも10年もの時日が経過している。

 

(3)盲ろう者組織結成の意義

 盲ろう者組織が結成されることによって、孤立分散していた盲ろう者が一堂に会することができるようになった。それはきわめて意義深いことである。盲ろう当事者組織結成の意義は、次の3点である。

①盲ろう者自身が自らの悩みを出し合ったり、情報交換したりする場ができたこと。
②その組織に盲ろう者自身が参加することによって、孤独感から解放されるようになったこと。
③それだけにとどまらず、盲ろう当事者の要望を実現する力を結集することができるようになったこと。

 盲ろう者友の会や全国盲ろう者協会の結成とその活動が、盲ろう者の存在をそれまで以上に広く社会に知らしめ、盲ろう者への認識を高めることに大きく寄与した。

 

3.盲ろう者固有の福祉サービスの制度化

(1)盲ろう者が抱えている困難

 盲ろう者には、「見えない」「聞こえない」という障害故に三つの大きな困難がある。

①情報入手の困難
②外出の困難
③コミュニケーションの困難

 盲ろう者と他の障害者とりわけ視覚障害者や聴覚障害者との困難の相違は、少なくとも次の4点である。

①コミュニケーションの困難は、盲ろう者に比べると、視覚障害者にはほとんどないに等しい。
②外出の困難は、盲ろう者に比べると、聴覚障害者にはほとんどないに等しい。
③視覚障害者にとっての外出の困難に比べると、盲ろう者が抱える困難ははるかに大きい。
④聴覚障害者にとっての情報入手の困難やコミュニケーションの困難に比べると、盲ろう者が抱えるそれらの困難ははるかに大きい。

 これらの点において、盲ろう者と視覚障害者や聴覚障害者とでは、抱えている困難が決定的に異なるのである。
 盲ろう者が抱える最大の障害は、外界の「社会的な情報」を自力で入手することが極端に制約されていることである。行動面での困難をはじめ、他の困難も、この情報障害が原因となって生じてくるのである。
 全盲ろうの場合、外界の情報は主として「味」、「におい」、「振動」や「皮膚感覚」という形でしか入ってこない。したがって、「社会的な情報」は触覚を通して点字や触手話、手書き文字によって入手せざるを得ない。

(2)盲ろう者のコミュニケーション手段

 盲ろうになった時期と、盲ろうの障害程度とによって、盲ろう者のコミュニケーション手段は大きく異なる。
 盲ろうの状態になった時期によって、盲ろう者は4タイプ(厳密には6タイプ)に分類できる。それは先天盲ろう、先天盲後天ろう、先天ろう後天盲、後天盲ろう(最初に盲その後にろう、最初にろうその後に盲、同時に盲ろう)である。
 盲ろうの障害程度によって、盲ろう者は4タイプに分類できる。それは全盲ろう、盲難聴、弱視ろう、弱視難聴である。
 これらの分類は単に区分するためだけのものではなく、コミュニケーション方法の違いとも大きく関わっている。
 すなわち、全盲ろうであっても、先天盲後天ろうの場合は、自分の意志は音声で伝えるであろうし、情報入手は点字や指点字を使ってするであろう。先天ろう後天盲の場合は、自分の意志は手話や文字を使って伝えるであろうし、情報入手は蝕手話を使うであろう。ただし、これらに限定されるものではなく、本人が身につけている他のコミュニケーション手段を使うこともある。 

(3)盲ろう者固有の福祉サービス

 盲ろう者がスムーズにコミュニケーションをとることができるようにしたり、盲ろう者に情報を伝えたりするためには、それを支援する“通訳者”が必要である。
 盲ろう者が外出したり移動したりするときに盲ろう者の安全を確保するために、それを支援する“介助者”が必要である。
 この両者のサービスを提供する支援者のことを「通訳・介助者」と呼んでいる。この通訳・介助者は盲ろう者が生活するためには欠かすことができない存在である。
 盲ろう者にとって、この「通訳・介助者」を派遣するサービスこそが、盲ろう者の固有の福祉サービスなのである。
 視覚障害者には介助者(手引き者)の支援(サービス)は必要だが、通訳者は原則的には必要ではない。聴覚障害者には通訳者の支援(サービス)は必要だが、介助者は原則的には必要ではない。

(4)盲ろう者の固有の福祉サービスの制度化

 すでに述べたように、1996(平成8)年に、地方行政として初めて東京都と大阪市とが「通訳・介助者派遣事業」を制度化した。同じ盲ろう者への支援制度でありながら、東京都と大阪市とでは異なった方式をとった。すなわち、東京都の場合は補助金の給付方式、大阪市の場合は大阪市が実施主体となっての個人保障の方式である。
 したがって、大阪市における通訳・介助者派遣制度は、行政の責任において実施される日本で最初の盲ろう者の固有の福祉サービスを制度化したものなのであった。
 この2自治体の制度は、自然発生的にできたものではない。盲ろう当事者や支援者の粘り強い要求運動があったからこそ制度化されたものである。
 2000(平成12)年4月から、国の事業として、盲ろう者への“通訳・介助員派遣事業”が試行事業として実施されることになった。この試行事業にしても、自然の成り行きで実施されるにいたったわけではない。盲ろう当事者や支援者の強い要望の結果実現にいたったものにほかならない。
 「通訳・介助員」と「通訳・介助者」とは名称が異なるが内容はまったく一緒である。前者の名称は国によって名付けられたものであり、後者の名称は、国の制度ができる以前から当事者等の間で一般的に使われていた名称である。
 2006(平成18)年4月から実施された“障害者自立支援法”によって、盲ろう者向け通訳・介助者派遣事業は、やっとのことで制度化された。
 同法における“地域生活支援事業”の必須事業の一つである“コミュニケーション支援事業”の中に、“盲ろう者向け通訳者等派遣事業”が位置づけられたことによるのである。“盲ろう者向け通訳者等派遣事業”とは“盲ろう者向け通訳・介助者派遣事業”のことである。
 このコミュニケーション支援事業は市町村事業であるが、盲ろう者への通訳・介助者派遣事業は都道府県事業として位置づけられた。都道府県事業になったのも、当事者団体からの要望に基づくものである。前述した大阪市の“ガイド・コミュニケーター派遣事業”は大阪府に移管され通訳・介助者派遣事業となった。
 このように、盲ろう者への通訳・介助者派遣試行事業は丸6年ものあいだ試行事業のままであったが、障害者自立支援法の実施に伴って制度化されたのである。
 この制度は、現在では、2013(平成25)年の「障害者総合支援法」の“意志疎通支援事業”に引き継がれ、都道府県にその実施が義務づけられたのである。

 

おわりに

 盲ろう者であるヘレン・ケラーが最初に来日してほぼ70年後に、やっと日本の盲ろう者に福祉の光が当てられた。とはいえ、目と耳からのほとんどの情報を自力では入手することができずにいる盲ろう者には、家族等の協力がない限り、今なおこの光は当たることがない。
 したがって、孤独な生活状況から盲ろう者を解放するためには、今後、盲ろう者の実態把握をすることである。存在している盲ろう者を掘り起こし、その生活実態を明らかにし、盲ろう者福祉の向上に、よりいっそう行政の目を向けさせることが必要である。
 盲ろう者とその歴史について概略を述べてきたが、盲ろう者の状況はここで述べてきたような簡単なものではない。詳しくは、愼英弘著『盲ろう者の自立と社会参加』新幹社、2005年を参照されたい。

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