幼少期に小児麻痺にかかり、足に障がいを持つ仲川一昭さん。音楽に支えられた経験と障がいを活かしたいという想いで、オーケストラを中心としたボランティア活動を続けられています。
仲川さんが主宰するオーケストラ福祉の管弦楽団「まごころ」が、リハーサルを行っている大阪市内の公共施設にお伺いし、インタビューさせていただきました。
幼少の頃から小児麻痺で、足が悪かったこともあり、祖父母の家に引き取られていたですが、音楽教師であった祖母から音楽の指揮を教わりました。指揮といっても棒切れを振り回す遊びのようなもので、足に障がいがあった僕にはこの上ない楽しみでした。
小学校に入ると障がいのあることでいじめにあいましたが、そんな時には一人、野原に出てハーモニカを吹いていました。その時初めて、音楽が辛さから救ってくれることを知ったような気がします。
中学になると実家に戻ったのですが、3兄弟のうち、自分だけが祖父母に預けられていたことに対して反抗し、家庭内暴力を起こしたりしました。近所のバイオリン教室に通わせてもらえなかったことにも腹立たしい思いがありましたが、さほど裕福な家庭ではないのを知ってからは、早く家計を助けられるようになりたいと発起し、実業高校に進学しました。
高校生の時、友人から中古のギターを譲り受けたことで、音楽への情熱に火がつき、猛練習しました。通っていたギター教室の発表会では、クラシック曲の演奏が主流の中、僕は西洋の民謡など、素朴な曲を好んで弾いてました。ある発表会で、辛口で有名な評論家から賛辞をもらえ、すっかり自信をもち、福祉の集まりや公民館などで演奏する機会も増えていきました。
ある時、演奏後のあとかたづけをしていると、黙って手伝ってくれている男の子がいました。少しすると、その母親が僕のところにやってきて、「この子は家では暴力をふるう子で、今日みたいに人を手伝うことなんてやらないんです。今日の演奏が何か心に響いたようです」とおっしゃったんです。僕はとっさに「障がいが誰かの心に働きかけることができるのでは」とひらめきました。
大学進学後には、「ギターマンドリンオーケストラ」を創部。ますます音楽にのめりこみながら、障がいのある自分と音楽とのつきあいを深めていきました。
社会人になってもギターで慰問コンサートを続けていたところ、演奏だけではなく、自分の生い立ちや音楽についてのトークの依頼も増えてきました。ちょうと自殺やいじめの問題がクローズアップされてきた頃です。それで自分でも福祉と音楽について考えるようになり、「自分には指揮ができること」「音楽に助けられてきたこと」から、福祉活動を基本にするオーケストラのアイデアが思い浮かびました。
幸運にも新聞が記事にしてくれ、目の不自由な人、病気から復帰した人、重度障がいの子どものあるお母さんなど、たくさんのメンバーが集まってくれました。1991年、日本で初めての福祉の管弦楽団「まごころ」が誕生したのです。
「まごころ」の目的はオーダーメイドの生演奏を出前することです。目の不自由な人や車椅子の人がコンサート会場に出向くには、まだまだ困難が多いのが現状です。そこで聴きたい人のところに出向いていき、聴いてみたい曲を演奏するのです。レパートリーはテレビで耳にするクラシック曲からアニメソング、童謡や唱歌、それに歌謡曲まで約50曲以上。また通常の演奏だけではなく、手話コーラスを取り入れたり、観客のみなさんが体験できる「1分間指揮者コーナー」など、趣向を凝らした楽しいコンサートを創っています。
「まごころ」とは別にもう一つの音楽集団があるのですが、こちらでは演奏のほかに手品や落語など、パフォーマンスにも力を入れています。楽器編成もキーボードやサックスなど、オーケストラ楽器以外のものもあり、楽器を持つ手を人形に変え、腹話術をやるメンバーもいます。オーケストラ「響(ゆら)」と言うグループなんですが、こちらでは演奏会というよりも、訪問した先のみなさんとパフォーマンスを交え、楽しい時間を過ごすことが特長です。
気軽なオーケストラ演奏が中心の「まごころ」と音楽あふれるパフォーマンスが特長の「響(ゆら)」。どちらも音楽を接点にした福祉活動で、僕がそうだったように、音楽には人の心を救う力がある、ということを一人でも多くのみなさんに知ってもらえるよう、活動に賛同してくれる仲間を募るとともに、これからもあちこちで演奏を続けていきたいと思っています。